岸部一徳の若い頃は今と全然違う!アーティストとしても活躍していた

衝撃の不倫報道で世間を賑わせている岸部一徳さん。

岸部一徳さんは、名脇役として数々の作品で存在感を示しています。

テレビで見ない日はないくらい

そんな名俳優の若い頃は、一体どんな顔をしていたのでしょうか?

また若い頃は、アーティストとして活躍していたとも…。

詳しく見ていきましょう。

この記事で詳しく話すこと

岸部一徳さんは若い頃、どんな顔をしていた?

岸部一徳さんの若い頃の活動は?

目次

岸部一徳は若い頃と全然違う

岸部一徳さんの幼少期と現在の顔を、比較してみましょう。

若い頃の岸部一徳

1967年|20代の岸部一徳

現在の岸部一徳

2024年|現在の岸部一徳

今と雰囲気が違いますね。

若い頃はどんなことをしていたのかな…

キャリアはどんな感じなの?

それぞれ見ていきましょう。

学生時代の岸部一徳

岸部一徳さんは、学生時代の頃はどのようなキャリアを歩んできたんでしょうか?

岸部一徳の学生時代のキャリアはこんな感じ。

1947年(0歳)
京都府京都市に生まれる
1953~1959年(6歳~12歳)
小学校を4回転校する
1960~1962年(12歳~15歳)
京都市立北野中学校に進学
1962~1964年(15~18歳)
京都市立伏見工業高等学校建築科に進学

京都出身なんだね

それぞれ見ていきましょう。

幼少期の岸部一徳

幼少期の岸部一徳の写真は、公開されていません。

父親は元憲兵で、9人きょうだい三男だったよう。

小学校はどこの通っていたのか公開されていませんが、4回くらい転向を繰り返したそう。

熊本と京都を行き来していたみたい

小学1年生の途中で伯母(父の姉)を頼って熊本県へ引っ越すなど、転々としていたようです。

転勤族だったんだね

中学時代の岸部一徳

中学時代の岸部一徳さんの写真は、公開されていません。

岸部一徳さんの通っていた学校は、京都市立北野中学校です。

この学校で、後にバンドを組むことになる瞳みのるさんと出会っていたそう。

他にも有名人が卒業生にいるみたい

  • 森本太郎(元ザ・タイガース、音楽プロデューサー)
  • 天山広吉(プロレスラー)
  • 清川栄治(元プロ野球選手)
  • 中野湧大(お笑い芸人、無限ペンギン)

錚々たるメンバーですね。

高校時代の岸部一徳

岸部一徳さんは、京都市立伏見工業高等学校建築科に進学しています。

普通科の高校ではなく、工業高校だったみたい。

機械科、建築科、建設工学科、産業デザイン科、総合技術科

の5つの学科を設置していたようです。

この高校時代に、瞳みのるさんとバンドを組み始めていたそう。

高校から始めたんだね

しかし、高校卒業後はアーティストとして活躍していきます。

アーティスト時代の岸部一徳

岸部一徳さんは、高校卒業後にアーティストを目指したそう。

そんなアーティスト時代の岸部一徳さんのキャリアはこんな感じ。

1965年(19歳)
バンド「サリーとプレイボーイズ」を結成
1966年(20歳)
「ザ・タイガース」と改称
1967年2月5日(21歳)
シングル『僕のマリー/こっちを向いて』でデビュー
1971年1月24日(25歳)
「ザ・タイガース」が解散
1971年2月1日(25歳)
バンド「PYG」を結成
1972年(26歳)
「井上堯之バンド」を結成
1975年(29歳)
「井上堯之バンド」を脱退

バンドを組んでいたことがあったなんて…

それぞれ見ていきましょう。

「サリーとプレイボーイズ」時代の岸部一徳

岸部一徳さんは、バンド「サリーとプレイボーイズ」を結成しました。

バンド名の由来は?

リトル・リチャードが作曲した「ロング・トール・サリー」という曲が由来みたい…。

この曲に引っ掛けて、岸部一徳さんは、「サリー」と仲間からあだ名をつけられていたそう。

そこから「サリー(岸部一徳)」とその仲間たちという意味らしいです。

ボーカルに沢田研二さんが加わって、大阪で高い人気がでたみたい。

「ザ・タイガース」時代の岸部一徳

岸部一徳さんは、「ザ・タイガース」を結成しています。

上京を機に名前を変更したそう

今まで、ベーシストとして活躍していた岸部一徳さんは、ボーカルになったそう。

そして、バンドのリーダーにも抜擢。

バンドの中でも主力になったんだね

そして、シングル『僕のマリー/こっちを向いて』でメジャーデビューしたそうです。

その後勢いは、止まらず「GSの王者」と言われていたみたい。

しかし、「ザ・タイガース」は単独日本武道館公演を持って解散してしまいました。

バンド「PYG」時代の岸部一徳

1971年2月1日にタイガースのメンバーと、他のバンドをやっていた人達と合流して組んだバンドだそう。

しかし、このバンドは長く続かずに解散してしまいました。

理由はこの2つ。

  • 事務所の方針と岸部さんの方針が合わなかった
  • バンドメンバーの中で俳優活動が忙しくなった人がでてきた

事務所の方針が商業ベースで考えていたので、岸部さんの思い描いたオリジナルの音楽ができなかったそう。

また、俳優活動で忙しくなった沢田研二さんと萩原健一さんが参加できなくなってきたのも一因に。

事務所と方針が合わなかったのは辛いね

「井上堯之バンド」時代の岸部一徳

1972年、「井上堯之バンド」として独立を果たします。

このバンドでは、沢田研二さんと萩原健一さんが主演を務める映画やドラマのサントラをしていたそう。

結構活躍していたんだね

しかし、1975年にバンドを脱退したそう。

理由はこの2つ。

  • 新しい演奏テクニックの修得に消極的だった
  • リーダーの井上との関係が悪くなった

そして、バンド脱退後は俳優として活躍していきます。

俳優時代(現在まで)の岸部一徳

岸部一徳さんは、バンド脱退後は、俳優活動に専念します。

俳優としてのキャリアはこんな感じ。

1975年(29歳)
俳優に転向する
1990年(44歳)
『死の棘』で第14回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞
2015年(69歳)
第23回橋田賞を受賞
2024年(77歳)
不倫報道

それぞれ見ていきましょう。

俳優転向後の岸部一徳

俳優に転向後の岸部さんは、最初はあまり出番が少なかったよう。

出演作品や役名をみていくと、

  • 悪魔のようなあいつ(1975年、TBS) – 左川
  • 寺内貫太郎一家2 第24話(1975年、TBS) – 野村先生
  • 気まぐれ天使(1976年 – 1977年、日本テレビ) – 岡崎
  • 大河ドラマ (NHK)
    • 黄金の日日(1978年) – 彦助
  • 宴のあと〜自称 小川真由美の調書〜(1978年10月29日、NHK) – 堀川進(あさはらのぼる)
  • 気まぐれ本格派 第24話(1978年4月5日、日本テレビ) – ススム
  • 銀河テレビ小説 (NHK)
    • 鳥獣の寺(1979年4月30日 – 5月11日) – 杉刑事
    • 夢で愛して(1985年5月20日 – 6月14日、大阪局制作) – 荒牧大五郎
    • 暗闇のセレナーデ(1985年9月9日 – 10月9日)
    • 風を愛して(1986年) – 梶木忠太郎
  • 続・事件 海辺の家族(1978年、NHK) – 浜村努
  • 修羅の旅して(1979年10月28日、NHK) – 古木悟
  • 探偵物語 第9話(1979年11月13日、日本テレビ) – 夏八木吾郎
  • 土曜ドラマ(NHK)
    • 阿修羅のごとく(パート2)(第4話、1980年2月9日) – 宅間
    • 君はまだ歌っているか(1981年) – 猪瀬章

ゲスト出演が多いのがわかります。

出演作品は多いんだけどね

そんな岸部一徳さんは、1990年代に入ると存在感を示し始めます。

日本アカデミー賞最優秀主演男優を獲ったときの岸部一徳

1990年に映画「死の棘」で、第14回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞を受賞します。

主演のイメージがないからびっくり

また、この「死の棘」はカンヌ国際映画祭でグランプリを獲っているそう。

映画の内容は?

別離の危機に瀕した夫婦の絆と家族の再生を描いた人間ドラマ。

第二次世界大戦のさなかに出会い、夫婦になった男女を描いた作品だそう。

この作品がきっかけで、テレビドラマの名脇役として欠かせない存在になっていきました。

第23回橋田賞を受賞したときの岸部一徳

岸部一徳さんは、2015年に橋田賞を受賞していたそう。

橋田賞ってどんな賞なの?

日本人の心や人の触れ合いを取り上げ、放送文化に大きく貢献した番組や人物に贈られる。

受賞している人は、黒柳徹子さんや宮沢りえさんなど錚々たるメンバーなのがわかります。

不倫報道を受けている岸部一徳

現在、岸部一徳さんに不倫報道が上がっています。

報道内容は?

ショートカットの女性と別の部屋を借りている

ということが報道されました。

今後の展開が気になりますね。

まとめ

岸部一徳さんの若い頃について詳しく記事を伝えていきました。

  • 岸部一徳は若い頃、バンド活動をしていた
  • 俳優として有名になったのは、1990年代からだった

岸部一徳さんの今後な活躍が楽しみですね。

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